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沼田城趾

先日、上越線のSLぐんまみなかみ号を撮りに行った際、少し時間が空いたので、沼田城趾を訪れてみました。
群馬県沼田市は河岸段丘で有名なところで、台地上の沼田城を中心に城下町が形成され、今でも上越線の沼田駅から坂道を登った段丘上に市街地があります。
沼田城のあった場所は、沼田城趾公園となっており、運動場前の駐車場に車を止めて本丸跡まで歩いてみました。
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沼田城趾のある河岸段丘上は切り立った崖となっており、昔は天然の要害だったことがわかります。
今でも利根川の対岸まで行くには、かなり回り道をしないといけません。
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まず最初に目についたのが二の丸にある土塁状の遺構で、真田氏以降に築かれたものらしい。
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<本丸堀跡>
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<鐘楼と沼田城本丸跡>

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<戦国無双4のパネル>
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<真田信幸と小松姫の像>
豊臣秀吉は真田昌幸に信濃2郡と利根・吾妻の旧領を安堵し、昌幸は沼田城を嫡子の信幸に与え、信濃国上田へ移りました。
初代沼田城主の真田信幸は城郭の整備を行い、天守を備えた立派な城となり、関ヶ原の戦いを終えた後は5代まで沼田領を治めていました。
信幸の妻だった小松姫は本多忠勝の娘で、関ヶ原の戦いの時に敵対することになった真田昌幸が入城しようとしたところ、「たとえ舅であっても敵である」と追い返した逸話が残っているそうです。
1681年、5代信利の代に失政を理由に改易となってしまい、城はすべて破却されて堀も埋められてしまいました。
しばらく天領となっていましたが、本多氏2万石で再び入封し、その後も藩主が変わり明治維新を迎えましたが、天守が建造されることはなかったそうです。
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<鐘楼>
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わずかに石垣などの遺構が残っていました。
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<平八石>
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沼田平八郎景義の首級を載せた石。沼田城奪還に追われていた真田昌幸が金子美濃守をだまして沼田平八郎を殺害し、首実検の後にこの石の上に置いたと言われています。
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<天狗堂>
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天狗堂の中を覗いてみると日本一大きな天狗面が安置されていましたー。沼田城趾を訪れた際には一見の価値がありますね。

昨日から新潟県・山形県などで線状降水帯が発生し、大雨により河川が氾濫するなど大変な状況になりました。
ニュースを見ていたら、米坂線や磐越西線が鉄橋が流されるなど、交通網が遮断されるほどの被害の大きさに衝撃を受けました。
被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
謹んでお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。


by hiro7355 | 2022-08-04 21:35 | 続・日本百名城 | Trackback | Comments(0)